「和を尊ぶ」という言葉の本来の意味は、実は「角をたてずにみんな仲良く」ではありません。世の中には誤解している人が多いのですが、「和をもって貴しとなす」の意味は、「立場や価値観の違いは尊重した上で、共通の目標のために力を出し合う」ということなのです。「和」を大切にというのは、「みんなの価値観を全て同じにしよう」ということでは決してありません。
君子和而不同、小人同而不和 (孔子)
君子和して同さず 小人は同して和さず
<訳例>
君子(優れた人間)は協調はするが馴れ合いはしない。
小人(くだらない人間)は馴れ合いはするが協調はしない。
孔子からですが、よく言われる「和」の本来の意味はこれです。価値観も性格も異なる人たちが、共通のより大きな目的のために協力する。これを「協調」や「調和」と呼びます。
マンガでいうなら、悪役側の城の地下室に閉じ込められた、ルパン三世と銭形警部が、城を脱出するまでに一時的に手を組む、これが「和」のスピリットです。
共通の目的のために、立場や価値観の違いを超えて、警官と泥棒が協力する。これが「和」です。カッコイイ話です。 (参考映画→”ルパン三世 カリオストロの城”)
ルパン三世が泥棒を辞めて警官になったり、銭形警部が警察をやめて泥棒になったりしたらおかしな世界になります。そういう「全員を同じにしよう」的な発想を「和の精神」と呼ぶことはできません。
聖徳太子の十七条憲法の条文も、実はあの有名な「和を以て貴しとなす」という言葉には続きがあります。以下は原文です。
一曰
以和為貴、無忤為宗
人皆有黨、亦少達者
是以或不順君父、乍違于隣里
然上和下睦、諧於論事
則事理自通、何事不成
現代語に超訳してしまうと
人の和が大事だ、むやみにケンカすんな。
人間はどこかカスなもの、まともな奴なんか滅多にいない
親と子のケンカ、上司と部下のケンカ、近所のケンカ、いろいろあるよな
上のものも下のものも、立場の違いを超えて
ケンカしないで対話をしていこうじゃないか
そうすれば、なにが本質なのかわかるし、なんでもできるようになるよ。
という感じです。実はこの条文は、フリートーキング(自由討議)もしくは立場を超えた対話の重要性という理想を問いているわけです。
たとえば、和というのは社長が自分の意見を独演会するだけの会議などを推奨しているわけではないのです。上のものも下のものも、右も左も活発に意見を交換しようじゃないか。そうすれば三人寄れば文殊の知恵的な感じでいいことがあるよという話になっています。
和の精神の本来の意味は、「みんなと一緒の強制」や「自己主張しない美徳」などでは決してありません。みんなが主張すべきは主張した上で、より大きな目標に向かって集合智を集めるというのが和の精神です。議会制民主主義の原型とでも言うべきグローバルに通用する発想が和の精神の根本なのです。
なお、20世紀の国会ではフリートーキング的な対話はほとんど行われなくなっています(国会中継で見られる議論は事前に官僚が調整済みの脚本を読むことが基本になっています)。だがしかし、日本型民主主義の原点は聖徳太子の十七条憲法(西暦604年)にあったのだ、と考えるとちょっとオモシロイと思います。
追記
別の視点で見ると、和の発想というのは「私怨は公門に入らず」という話にもよく似ていると思います。
嫌いな人であっても、相手の役に立つと思えば推薦する
好きな人であっても、相手の役に立たないと思えば推薦しない
好き嫌いという枠を超えて、みんながよくなるためにやることをやる、というのが全体の調和を重んじる和の発想です。ただ、自分の好き嫌いはわきに置いただけですので、相手が嫌いという感情を押し殺すわけではありません。嫌いな相手でも誰かの役に立つと思えば嫌いなまま推薦するということです。
自分がパンが大嫌いだったとしても、パンが好きな友人がいたら美味しいパン屋の情報を聞いたら教えますよね、というだけの話です。そんなに難しい話ではありません。
これが同の発想だと
相手の役に立つと思っても、嫌いな人なら紹介しない
相手の役に立たないと思っても、好きな人なら紹介する
という風になります。これは自分の身内を増やしたいとは思っていても、相手によくなってほしいという発想が欠けている、視野の狭い小人(しょうじん)の発想です。