イエス・キリストは、ローマ帝国の属国になっているユダヤで活動をしていました。当時のユダヤはローマの属国だったので、「ローマ帝国から独立したい!」という民衆の不満がうずまいていたわけです。ここで、イエスは反対派から「ローマに税金を払うべきか?」という意地の悪い質問をされます。この時の受け答えが弱者の戦略として最適な方法です。
「私たちはカエサル(ローマ皇帝)に税金を納めるべきでしょうか?」
「その金貨には誰の顔が書いてあるのか」
「カエサルの顔がかいてあります」
「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい」
(マタイ伝22 より要約)
このイエスの答弁は、宗教活動家というより海千山千の政治家の名言のようです。「曲学阿世の徒」とか「戦争に負けたが、外交に勝った歴史はあるんだ」などの名言を残した吉田茂のような骨太さを感じます。
普通に「ローマに税を払うべき」とだけ言えばユダヤの民衆の支持を失います。逆に「ローマに税を払うな」とだけ言えばローマの兵士が飛んでくる可能性があるわけです。そこで、うまいことユダヤの民衆にもローマにも顔が立つ答弁をしたわけです。もとの文脈だと、「ユダヤの神殿にもローマの皇帝にもカネ払っときゃいーだろ。(くだらない質問しやがって)」的な意味になるようです。
この「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に」という言葉は、「俗世のことは俗世の権力に従う、でも信仰のことは譲らない」と拡大解釈することができます。このタイプのストーリーを持っていたことは、キリスト教にとって非常に幸運なことだったと思います。
というのは、初期のキリスト教はローマ帝国の中では、今で言う「ヤバイカルト教団だ」くらいの扱いを受けていたからです。そういう逆風の中で信仰を守るためには「俗世の権力とは無駄に戦わないこと」が重要だからです
「口先でローマ皇帝万歳と叫んでも、心の中では自分たちの信仰を守れば何の問題ない」という作戦を使えるのは、弱者の処世術としては最強だと思います。テレパシーでもなければ心の中にまで立ち入ってこれる権力者は存在しないからです。
逆にいうと、このストーリーは「俗世のことは俗世の権力に従え!」という裏付けにもできるので、自分たちが強者の側になった時にもそのまま裏返して使えるわけです。つまり、 「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に」という「内心の自由」という発想は、弱者の時も強者になった時も便利に使える生き残り戦略なわけです。
現代人も、まかり間違って、変な会社や変な学校に入ってしまい、諸事情で今すぐ撤退できないという場合もあると思います。この場合は「口先と行動だけ周囲にあわせて、内心の自由は絶対に譲らない」という戦い方が一番合理的になるでしょう。
ただ 「24時間ウソしか言わない生活」だと気力がどんどん減っていくので、「本音の時間」は別で確保することが必要です。
今はインターネットもあるので、探せばそういう場や仲間を見つけることは必ずできると思います。別に直接会わなくてもメール友達でも大丈夫です。最悪、ラジオの音声や物語の中の人だけが本当の友達というのでもいいと思います。私は一時期そういう時期がありました。重要なのはウソをつかなくていい時間を確保し続けることです。1日30分でも1時間でもそういう本音の時間を確保できると、残りの24時間マイナス30分の人生の充実度が大きく変わっていきます。