「万教一根」「一道万物に通ず」という極度に抽象度が高い把握をしているのが日本的な世界観の特徴です。学者的ではなく修行者的な世界観と言えます。この感覚は、感覚がある人には信仰の違いを越えて万国共通で通用するという普遍性を持っているのが強みです。その意味で、次世代のDe Facto Standard(事実上の世界標準)になりえる可能性を持っています。
万教一根というのは、全ての宗教の教えは根は一つである。という世界観です。
こうした抽象度の高い世界観がベースにあるからこそ、神道は仏教と習合し、キリスト教と習合し、ということが繰り返され
結果、普通の日本人のほとんどは
「結婚式は教会で、葬式は寺で、新年には神社に詣でる」
というカオスなことをして平気でいられるのです。
明治以来、神道は宗教ではないということになっています。なので、多くの日本人は「無宗教である」という自覚をもっています。ただ、多くの日本人の言う「無宗教」は、実質的には「うちの宗教は日本神道である、もしくは日本教である」と言っているようなものです。少なくとも英語に訳する場合に「無神論です(神も仏も一切存在しないと思っています)」にはなりません。無神論なら初詣などにいくはずもないですし、結婚式にキリスト教式や神道式を選ぶことも論理的にありえないからです。
日本仏教には、本地垂迹(ほんじすいじゃく)という世界観があります。日本のローカルな神々というのは、仏が姿を変えて仮に現われたものだ、とする考え方です。 古来の伝統を重視する立場の神道側は対抗して、神主仏従を唱えます。日本の神々が姿を変えてインドに現われたのが仏だとするものです。
これはどちらも「万教一根」、全ての教えは根はひとつである。神様は「インド人の前にはインド人の姿で、日本人の前には日本人の姿であらわれるが、その本質は普遍的なものである」といった 感覚がベースにあるからこそ出てくる発想です。