「運命によって〈諦め〉を得た〈媚態〉が〈意気地〉の自由に生きるのが〈いき〉である。」という静かに有名な名言があります。「いき(粋)」というお江戸な美意識の考察なのですが、現代的なアニメや漫画などの「クールジャパン」なコンテンツにも通じる話だと思います。
江戸の美意識(いき)を見える化
江戸の町人文化の精華たる「いき(粋)」を、「媚態・意気地・諦め」のトリニティとして見える化した九鬼周造 の明晰さはさすがと言わざるを得ません。昭和一桁の時代の論文なので、出てくる例え話がお江戸すぎて現代人には読むの大変ですが、 日本文化論や日本人論が好きな人なら要チェックな文書の一つだと思います。
例え話が十六夜清心だったり、春信や歌麿だったり、「江戸」がまだ遠い過去ではなかった時代に生きた人の書き物だけあり、古い本ならではの読みにくさが満載の本です。
原文は青空文庫で読めますが、お江戸な例え話を解説してもらうためだけでも、解説つきになっている本を買う価値があるでしょう。
かなり江戸文化フリークでない限り、「髷も島田に由比ヶ浜」とか言われても「清元や長唄」とか「十六夜精心」とか言われてもイメージわかないと思いますので。
結論だけひっぱってくると
(花魁的な)媚態 (サムライ的な)意気地 (修行僧的な)諦め
を統合すると「粋」になるという発想で江戸の美意識である「いき」をとらえているというのが核です。
このフレームワークはなんかオモシロサを感じます。だから少なくない人が「名著」としてあげているのでしょう。媚態というのは、「モテたいから見栄はる」みたいな、「釣った魚に餌はやらない」の真逆な話です。
恋愛や性愛的な恋心という感情の動きに、「無視できないと大きな価値」を与えているのは日本的な美意識の特長の一つです。源氏物語が実は過激な恋愛小説であるのは有名な話です。
この辺は、中世ヨーロッパと近代ヨーロッパが性的なものを「隠そう。抑圧しよう」という方向性をもっていたのとは真逆な部分と言えます。モテタイという人間のもつ根源的な欲求に対して肯定的なわけです。
媚態・意気地・諦め、から発展させると
さて、この三位一体な視座を踏み台にして連想していくと、
魅惑・プライド・絶望=日本的かっこよさ 恋愛文学×武士道×仏教=日本的クールさ
ということです。
源氏物語のような恋愛万歳の世界
宮本武蔵のようなサムライ的な世界
平家物語のような無常と絶望と隣り合わせの世界
これらの三位一体が「日本的な美しさ」を作り出すという 論理分析です。
なにかを求める、恋い焦がれる心 己を律し、高みを目指す意志 世界の限界と向き合う、ある種の絶望
確かに、この3つの要素が統合されたものを、 私達はカッコイイとか美しいとか感じるのかもしれません。
逆から考えてみよう
1.媚態の否定、恋愛の否定をすると?
中世キリスト教的な「肉体的なものの否定」や、ビクトリア朝的な「セクシャルなものへの否定」というのは、日本的クールさとは遠いものです。
浮世絵のセックスシーンに、モザイクがかかってたらどうでしょうか?
ビクトリア時代の英国は、古代の裸の男性の彫像があったら、性器を隠して 展示していたと言いますが、かっこ悪いと感じませんか、という話です。
2.意気地の否定、プライドや向上心を否定すると?
誇りのない、なんでもペコペコする人を想像してみると、「クールさ」や「かっこよさ」とはほど遠いことが分かります。
同じように 、己を律することに失敗している 「ファッションではなく、本当にダイエットしたいけど、ずっと太りすぎのまま」みたいな人を想像してみると「美しさ」の対極であることは分かります。
3.諦めの否定、絶望の否定をすると?
なんでもかんでも「ポジティブ・ポジティブ」といつもテンション高い人達みたいなイメージでしょうか。これはアメリカ人っぽい自己啓発が好きな人達をイメージすると分かりやすい人もいるかもしれません。
スーパーポジティブが、ダサイのかカッコイイのかは、意見が分かれると思いますが、 単純なポジティブよりは、ネガティブをふまえたポジティブのほうが美しいと感じる人は少なくないのではないでしょうか。
クールジャパンには、媚態(欠落と見栄)が必要だ
ということで、「クールジャパン」を実際に表現したい時、なにかを「日本的ですごい」と感じた時、「媚態・意気地・諦め」の三要素でコンセプトをチェックして見るとオモシロイと思います。
例えば、媚態は、内なる欠落ゆえに他者を求める二元的なエネルギー、意地は、自分を律して高みを目指すエネルギー、諦めは世界と格闘するエネルギーだとすると、
少年ジャンプ的にするなら、媚態は友情に、意気地は勝利に、諦めは勇気に、「友情・勝利・勇気」にそれぞれつながっていくのかもしれません。厳密には「恋愛・勝利・勇気」になるのかもしれませんが。
ところで、絶望をなぜ勇気につなげたのかというと、そもそも「絶望する」というのは「勇気をもって希望をもつ」ことができる人の特権だからです。
最初から何にも期待していなければ、絶望や諦めにはたどり着きません。衆生救済の志をたてるからこそ、修行僧は絶望を体験するわけです。あえて絶望を選べるのは勇気のなせる技という発想です。