明治維新は、近代化と統一国家の樹立を行った輝かしい革命ですが、その陰で「上からの宗教改革」によって前政権たる江戸時代以前の宗教文化の破壊が行われました。神仏分離令と、それに伴う廃仏毀釈という寺院の破壊運動です。やや専門的ですが、この時の政府の宗教政策とその影響を丁寧に解説している書籍です。
明治維新という宗教改革
明治維新というと、「坂の上の雲」みたいな、江戸以前の封建制度から自由な近代国家へというイメージを持っている人もいるかもしれません。ただ、初期の頃は近代的な信教の自由というものは想定されていませんでした。
実は近代化だけでなく、急進的な宗教政策も行っていました。「神仏分離令」「神道国教化の試み」「修験道(山伏)の禁止」や「宮中行事から仏事を追放」などが1つの例です。
廃仏運動が起きたわけ
江戸時代のお寺というのは、現代でいう村役場的な役割をおわされていました。というのは、キリスト教禁止政策の影響で「全ての人は寺に所属すべし」というお達しが江戸幕府から出ていたからです。
信仰心みたいなものは特に関係なく「○○村に住んでいる=〇〇寺の檀家になる」という制度が生まれたわけです。これは寺院にとっては安定収入をもたらす一方で、一部である種の堕落を生むことにもなりました。
そんな中で、民衆の寺院への反感みたいなものが江戸時代には蓄積されていきます。そこで、幕府が倒れて、復古神道・国学の思想が強かった維新の志士達が政権を取りました。そして、神道を中心にした社会を志向することになります。
そこで出されたのが「神仏分離」という方針で、上からの宗教改革と呼ぶにふさわしいものでした。これは、それまで「違うものではあるが、同じもの」として一体化が進んでいたお寺と神社を切り離す政策です。
これが呼び水となって、地域によっては「仏像や寺院の破壊」が行われます。もともと国学(復古神道)の影響力が強かった地域で特にさかんだったようです。
寺の受けたダメージ
神仏分離令そのものが、廃仏運動を呼び起こしたかは地域差があったようです。ただ、同時期に寺院の資産を没収する法令も出ていてこちらもダメージが大きかったようです。
「興福寺のばあい、慶應四年四月に「一山不残還俗」し、僧侶の一部は春日社に神勤し、多くは離散した。しかし、決定的な打撃を与えたのは明治四年の寺領上知の法で、翌年には、伽藍仏具などの一切が処分された。五重塔が二十五円で売却され、買主は金具をとるためにこれを焼こうとしたが、」(神々の明治維新 安丸良夫 岩波新書 P57 )
奈良の興福寺の五重塔が、まさに二束三文で売却されるレベルに寺院の資産はダメージを受けたようです。明治初期の1円は今の2万円くらいらしいので、国宝級の建築が50万円で売られて焼却処分されそうになったということです。(なお、周辺住民が火事を恐れて買い戻したので、現存しています)
天皇家の葬儀はいつから神道になったのか?
十七条憲法を作った聖徳太子や、奈良の大仏を作った聖武天皇は敬虔な仏教徒であったという事が出来るでしょう。歴代の天皇で上皇になってから出家して法王となった例は、いくつもあります。源平時代に源平両家を手玉に取った後白河院が一番有名でしょうか。
建武の中興(建武の新政)の後醍醐天皇も密教法具をもった肖像画が残されています。後醍醐天皇は、死の間際に「玉骨はたとえ南山の苔に埋るとも、魂魄は常に北闕の天を望んと思う」と遺言し、右手に宝剣、左手に法華経をもって、京都の方向を向いて葬られたと伝えられています。(太平記)
実は天皇家の葬儀が神道式に戻ったのは、明治天皇以降の話です。国のトップたる天皇は、純粋に神道だけの存在でいてくれたほうがよい、という政治的要請によって神式に変更されたものと推測することができます。
革命が起きると、前政権の宗教は破壊される
フランス革命では一時期、キリスト教をやめて理性崇拝に変えようという動きがおきたことがあります。ロシアで共産主義政権が打倒された時は、それまで神聖視されていたスターリンやレーニンの像が引き倒されました。
アフガンでイスラム政権が権力を握った時に、バーミヤンの石仏遺跡が破壊されたことがありました。(イスラムは偶像崇拝を禁止しています)
政権が交代すると、それ以前の時代の神聖性が破壊される、というのは歴史上よくある話です。日本の場合も、似たような破壊活動が明治期に行われていたことはあったのです。
こんな人におすすめ
現代の日本のお寺や神社のあり方に「なにか違和感」を感じたことがある人全て。