豊臣大坂城: 秀吉の築城・秀頼の平和・家康の攻略  【書評 | 評論】

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この本は大坂城の考古学的な発掘成果と、関ヶ原から大坂の陣の政治史の辺の話がつまっている「考古学本+政治史本」です。学校の教科書だと 「関ヶ原の戦いで勝った徳川が、豊臣から政権を奪って幕府を開いた。後に秀吉の子孫を滅ぼして禍根を絶った」的にまとめられていますが、実はこの解釈はウソだったというのが政治史のほうのこの本の主張です

書評

「関ヶ原で勝った家康が天下を奪取した。その後、秀頼は65万石の一大名に転落した。そして天下を奪った家康は邪魔になった旧主を滅ぼした。」というのが教科書的な説ですが、実は豊臣体制は強固だったので、関ヶ原勝利時点での家康には豊臣政権を滅ぼせるだけの力はなかったようです。

本書の分析をまとめると

「そもそも関ヶ原で戦ったのは、豊臣系の大名であって、家康は豊臣家の子飼いの武将同士の内紛をうまく利用しただけ。」

「戦後に豊臣系大名の勢力はかえって増大している(西国は大半が豊臣系大名、残りも島津などの独立系で徳川系大名は全く配置されていない)」

「豊臣家は依然として天下を治める資格を持つと認識されており家康はこの時点では
豊臣家の大老の立場を出られなかった」

「家康は関ヶ原終了時点では、関東は徳川、西国は豊臣、的なシステムを指向していた。(鎌倉幕府の先例もあり、実は東西分割というのは自然な発想であった)」

「二条城で秀頼と家康が会見した際も、記録を見る限りは家康は秀頼を主筋としてたてようとしていた」

という話です。

では、なぜ家康が豊臣を滅ぼしたのかというと、「将軍職につく」ことで、豊臣体制は壊さずに、別に徳川体制を作ることには成功したものの、「自分が死んだ後に、豊臣家に徳川家が滅ぼされる可能性が高い」という不安にかられたという解釈になっています。

豊臣から徳川への政権交代の理由としては、豊臣政権は関白秀吉の個人的なカリスマに依存した政権だったので、家康という新しいカリスマが出てくると政権を奪われたという通説があります。

ところで、徳川政権も組織が盤石になるのは後の時代の話で、家康が将軍になり、秀忠が二代目をついだくらいの時点では秀吉政権と同じく「家康個人のカリスマで成り立っている」ものだったのは同様だったとのことです。つまり、家康政権も秀吉政権と全く同じ欠陥を持っていたわけです。

豊臣系の有力大名がどんどん死んでいって代替わりし、秀吉に世話になっていない世代と入れ替わっていくなか、

「今がチャンス!俺が生きてる内にどうにかしておこう!」

と家康がタイミングを計って起こしたのが大坂の陣だったわけです。 

「事実として関ヶ原以後の西国は豊臣系大名と豊臣でも徳川でもない大名ばかりだし、徳川系大名もそんなに圧倒的に強いわけじゃない」という「言われてみれば、確かにそうだよね」という話が列挙されていて、興味深い本です。

徳川側も関ヶ原からあとが楽勝ゲームだったわけでは全くなく、豊臣側も負けが確定したゲームだったわけではなかったことが分かります。大阪の陣に興味がある人は興味深い分析の多い本だと思います。(書評ここまで)

おまけのシュミレーション

ところで、「大坂の陣で豊臣を勝たせるにはどういうシナリオがあるか?」という話があります。これはいくつかやりようがあると思いますが、3シナリオ提示してみましょう。

1.関ヶ原以前

まず1つ目としては、そもそも関ヶ原の時点で、秀頼を押し立てて豊臣家として家康に相対して処分しておけばよかったという話があります。

この時点での家康の東軍は中身的には秀吉子飼いの豊臣系大名と徳川の連合なので、毛利輝元あたりが秀頼と一緒に前線に出てきてしまったら豊臣系大名は秀頼に刃を向けられません。

石田三成らは、淀殿や高台院を軟禁してでも、秀頼を戦場に拉致して連れてきてしまえばよかったということです。

さらに単純なシナリオとしては、前田利家が徳川家康よりも長生きして秀頼の補佐役を務めていれば、おそらく関ヶ原のような戦いは起きず、平穏なまま豊臣体制が継続していった可能性があります。

2.関ヶ原以後

次の方法としては開戦のタイミングを変えればよかったというシナリオが描けます。

大坂の陣の5年前なら、加藤清正・浅野幸長・池田輝政ら、豊臣系の有力大名が福島正則以外にも元気に生き残っていました。この場合、当時の大名の勢力地図から考えて「関ヶ原で領地を削られた徳川に恨みを持つ大名(上杉・毛利など)」と「豊臣系の有力大名」が同盟してしまえば、家康より秀頼のほうが軍事的に有利です。

なんといっても当時の西国は徳川系大名はほぼいない状態ですので、有力な武将達が豊臣方で旗を揚げてしまえば、「バスに乗り遅れるな」と豊臣方で参戦する可能性があります。

史実の大坂の陣の時だと、豊臣譜代の有力大名で生き残っていたのは福島正則くらいです。彼一人だとなかなかどうにもならなかったのでしょう。(福島正則の息子達は大坂方で戦っていますが)

逆に大坂の陣の5年後なら、史実通りなら徳川家康が死んでいますので、徳川譜代以外の大名達が「徳川に積極的に味方して軍勢を出す動機」がなくなります。彼らは家康の実力は認めていたかもしれませんが、徳川家に忠義だてする義理は特にないからです。むしろ「関ヶ原の復讐!」とばかりに、豊臣をかついで徳川をつぶして領地を拡大しようとする大名が出てくる可能性もあります。

あとは、家康は実は晩年まで律儀者のままだったという説もあります。淀殿を人質に出すなどして、徳川家が豊臣家に滅ぼされるのではという不安をとりのぞく努力をしていれば、強攻策には出なかった可能性もあります。

3.大坂の陣の開始後

最後のシナリオとしては、とにかく野戦で家康と秀忠を打ちとることだけを考えて戦うことです。「豊臣方が、冬の陣で1年でも2年でも粘って、積極的に出撃して勝利を重ねていれば可能性はあった」という話です。夏の陣でさえ真田軍が徳川本陣を崩壊させた例があるので、可能性としてはなくはないと思います。アクション小説を書くならこれが一番派手にできるでしょう。

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サイトの運営方針は「自分とは何か」「日本文明とは何か」という二つの問いへのインスピレーションを刺激する話をすること。人生で大切にしたい事は「遊び・美しさ・使命・勝利・自由」。 なお、日本的精神文化のコアの一つは「最小の力で最大の成果」だと思う。例えば「枯山水(禅寺の石庭)の抽象的アート表現」などは、良い例。

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