民衆運動というのは、「動機は正しく、行動は間違う」ということがよくあります。隣国で19世紀に起きた義和団の乱(北清事変)の歴史を振り返ると「大衆は基本的に間違う」という発想を理解できると思います。ベルサイユのばらのように「大衆は基本的に正しい」という発想だけでは歴史の真実を読み解くことはできません。
義和団の乱(AD1900-AAD1901)について、簡単に解説します。この戦争は、清国および清国内の民衆運動であった義和団と、当時の列強(英・仏・露・米・独・伊・墺)+日本が戦った戦争です。義和団は武術系の民衆運動から発展したものです。
結果は、清国と義和団の負けとなります。当時、列強の半植民地だった清国はさらに崩壊への道を進むことになってしまいます。
少し前の歴史から話を進めていきます。アヘン戦争(AD1840-1842)やアロー戦争(第二次アヘン戦争とも、AD1856-1860)の敗北によって清国は英仏など列強によって徐々に弱体化されていきます。
Edward Duncan 阿片戦争(1840-42)
さらに、清仏戦争(AD1884-1885)・日清戦争(AD1894-1895)の敗北によって朝鮮やベトナムなど、清国の属国だった国々も離脱していき、清国の弱体化はさらに深く進行していきます。
黄海海戦(1894 9.17) 於黄海我軍大捷 第一図」画:小林清親 (日清戦争)
こうした中で、キリスト教の布教が認められたことにより、清国にとっては異教徒な人達の宣教師達が治外法権の特権を活用して進出してきます。当時の清国庶民の感覚からすれば「変な奴らが入ってきたな」という感じです。
そして、対外貿易が増えたことで、税金が大きく上がってしまいます。たびたびの敗戦による賠償金を払うために増税されたのもありますが、大量の銀が国外に流出したことによって銀で納めることになっていた納税の負担も大きく上がってしまったのも大きい話です。
まとめると、列強が中国にやってくるようになって以来、変な宗教を広める奴らはやってくる、税金は倍になる、経済は混乱する、清国の庶民にとっては生活が苦しくなるイベントが続出したということです。
こうした事情もあり、民衆レベルでの反キリスト教運動や愛国運動が盛り上がりを見せていました。
そこで自然発生的に生まれてきたのが義和団です。宗教的武術集団だったのですが、民衆の素朴な愛国的感情に根ざした運動だったのでまたたくまに勢力を拡大していきます。清朝政府は、列強による植民地化を阻止するためには民衆の勢いを使うしかないと、義和団を北京に迎え入れ、諸外国に対して宣戦を布告します。
ただ、士気と人数だけでは軍事力の差はなんともしがたく、清国と義和団はあっさり敗北を迎えることになります。この戦いに負けた清国はもはや滅亡まであとわずかという状態になっていきます。
この時代、ヨーロッパの強国の軍事力は他の地域を完全に圧倒しており、世界の大半は英仏などの植民地になっていました。ヨーロッパの強国だけが自動小銃をもっていて、他の国はひのきの棒とピストルしか持ってない。それくらいの格差があったとイメージすると分かりやすいと思います。武器の性能の差が非常にかけ離れていたので、英国兵20人は、清国兵200人に匹敵するくらいの話だったわけです。
清国の人間もその辺りを理解していなかったわけではありません。アヘン戦争・アロー戦争の敗戦後、1861年から西洋から最新式の技術を取り入れる近代化政策をはじめます。この清国版の近代化プロジェクトを洋務運動といいます。日本の明治維新みたいなものです。が、近代化に賛成する勢力と反対する勢力の対立が、洋務運動の足を引っ張ることも多かったようです。
結果、日清戦争ではカタログスペックには劣るはずの日本海軍に清国の北洋艦隊は敗北してしまいます。義和団の時も近代化したはずの清国の正規軍も近代兵器を生かすことが出来ず、八カ国連合軍に敗北を重ねることになります。これに関しては、武器だけ近代化しても使う人間も近代的な発想を身につけないと意味が無いという批判がよくされています。
後付けの理屈を言えば、全力を挙げて武器と組織を近代化するのが先で、それが成果を上げるまでは戦ってはいけなかったわけです。ただ、民衆運動と同時に政治が戦争に踏みきるのが早すぎたために自滅してしまったわけです。
民衆の素朴な感情に根ざした排外運動というのは、コントロールを失って暴走することがよくあります。問題は、運動の動機はたいていの場合は正しいことです。ただ、戦争に踏み込むタイミングを間違うと文字通り国が滅びます。正義が勝つのではなく、勝者が正義を奪い取っていくのが現実の歴史の世界だからです。
愛国主義であれ平和主義であれ、暴力的な民衆運動がコントロール不能になって暴走する可能性に関しては、常に警戒をしておく必要があります。