かつて虜人日記の著者小松真一氏は先の大戦で日本が敗戦した要因の一つに「日本文化に普遍性なき為」と書きました。普遍性のなさというのは「自分達の無意識のルールの見える化と教育」が下手なのがダメということだと私は思います。グローバル化とIT化が進む21世紀において、日本人にとって最も重要な力の一つは「なんとなくの感覚を見える化」するという概念化能力であることは間違いないでしょう。
たとえば、もし宴会で「最初の乾杯はビールで」という風習で運営したいのなら「一杯目はビールを飲む、もしくは、くちをつけるふりをするのが私たちの宴会の法律である」とルールを見える化することが重要です。体育会系的におしつけたいなら「そういうルールであるので、従え!嫌ならくるな!」と上から目線で伝えることが重要です。
もし移民を大量に入れることになったら、こういうことをきちんと事前説明できないとどうにもなりません。それこそ暴動が頻発することになる可能性すらあります。異文化コミニュケーションというのは「当たり前の見える化」が重要だということです。これからは日本国内にも異文化圏の人間が仕事や遊びでやってくる率が増えることはあっても減るこはないでしょう。こういう「見える化」の作業はますます重要性を増していくことでしょう。。
無意識のルールを伝える努力を怠って「空気を読むのが文化だ」なんて思考停止の言い訳に逃げていたら、まともなコミュニティーは維持できない時代になっていくと思います。
外人に限らず、ある集団に外からやってきた人間にとって一番困るのは「見える化されていない意味不明なルール」です。あれほど面倒なものはありません。勝手に期待されて勝手に失望されるのでいい迷惑です。なんでもいいからどういうルールで回してるのかをまずは教えろという話になります。
ちなみに「とりあえビールで乾杯という風習」は私は嫌いです。各自が好きなものを適当に飲むのが世界標準であるべきと思っています。が、この「とりあえずビール」風習にも一定の合理性はあると思っています。
というのは、バイト店員中心の居酒屋の場合はビール以外のアルコール、特にカクテルや水割りの類がまともに作られる店は少ないからです。なので、アルバイト中心で回している大衆居酒屋の場合、一番美味しい飲み物がビールになることは少なくないと思います。
あとは形式として「同じ飲み物で乾杯する儀式」をしたい場合は、ビールであれ日本酒であれ
みんなで同じものを飲むふりをすることに意味がある場合もあるでしょう。ただ、この場合は実際には一滴も飲まなくてもいい運用にすることが重要です。宗教的に禁酒の人や、体質的に飲めない人、なめるだけで体調を壊す人、といった少数派の人達が混ざれなくなりますので。
「とりあえずビール思想」を広めたいとは全く思っていないのですが、もしそのルールで運営したいならたとえばこんな感じで「風習の理由」をきちんと説明することが重要になるということです。「命令だ。従え!」よりも「こういう理由がある伝統である」としたほうが伝わりやすいからです。