無礼講というと、「宴会などで、普段の上下関係の枠をある程度まで外して楽しむ」という意味で使われます。語源は太平記の時代です。後醍醐天皇や討幕派の人達が、勉強会と宴会にかこつけて討幕の密議をしていたシーンからきています。
太平記の無礼講
太平記での元祖の無礼講の記述はこんな感じです。
其交会遊宴の体、見聞耳目を驚せり。献盃の次第、上下を云はず、
男は烏帽子を脱で髻を放ち、法師は衣を不着して白衣になり、年十七八なる女の、盻形優に、膚殊に清らかなるをに十余人、褊の単へ計を着せて、酌を取せければ、雪の膚すき通て、大液の芙蓉新に水を出たるに異ならず。
山海の珍物を尽し、旨酒泉の如くに湛て、遊戯舞歌ふ。其間には只東夷を可亡企の外は他事なし。
(太平記)(wikisourceより)
古い時代の宴会は、結婚式の三々九度ではありませんが、献杯の式次第があったようですが、まずそれは無視。
昔の貴族階級にとって、烏帽子を脱ぐというのは、かなり「恥ずかしいこと」とされていました。これは、今で言うなら、烏帽子なし
=下着姿、みたいな感覚です。習俗なので特に合理的な理由はありません。これも無視。
法師(フリーのお坊さん)も下着だけ、素肌に肌がすける服を着た美女、こうなるとかなり淫蕩な香りがします。17、18くらいの美女とありますが、むかしは13くらいで成人(元服・裳着)しますので、いまでいうなら、25-26前後の美女を集め、というイメージでしょうか。
法師といっても、今とこの時代とではだいぶイメージが違いまして、むかしのお坊さんは祈る人専業というわけではなく、兵士でもあり金融業者でもあり大領主でも技術者でもあり、というイメージをしたほうが実は正確です。
お坊さんは祈る人専業みたいなことになるのは、実は江戸以降の話です。なので、法師というのはスキンヘッドのたくましいおっちゃんをイメージしていいと思います。
お公家さんが武闘派で戦国武将みたいなことをしてても、別に不思議がないのが室町時代以前の世界です。武力がほぼ武士の専売特許になるのも江戸時代以降の話なので。
太平記の無礼講では、討幕計画を幕府側に怪しまれないように、文学研究会を装い、さらに乱痴気騒ぎな雰囲気で騒いでるねという体にしたわけです。
現代の無礼講
太平記の時代の無礼講も、「討幕計画のカモフラージュ」という外せない目的がありましたが、現代の無礼講の場合も「何のための無礼講なのか」は探っておいたほうがよさそうです。たとえば、仕事を円滑にするための飲み会であれば、仕事上の上下関係の枠が外れることはないでしょう。