結果としては悲惨な敗戦に終わった作戦でも、一般に評価されるものとされないものがあります。たとえば、硫黄島の戦いの日本軍は敗戦したもののその奮闘を高く評価されていて、アメリカでハリウッド映画(監督:クリント・イーストウッド)にまでなっています。一方、低く評価される例としてインパール作戦の敗戦があります。
一般的な評価
一般の評価としては、現地司令官の牟田口が、補給を無視した無謀な作戦を強行したため、数万の餓死者を出して失敗したということになっています。
学校の教科書的に一文でまとめれば全くその通りです。ですので「インパール作戦」という言葉は「無謀な作戦の代名詞」として使われることがあります。類似した「無謀」という意味の慣用句に、「竹槍でB29を落とせというようなもの」というのもあります。
ただ、ビルマ(現ミャンマー)とインドの国境の山岳地帯での作戦における「補給の困難」は最初から把握されていなかったのでしょうか?
補給のことはみんな把握していた
実は、現地では「補給がやばい」ことくらいはきちんと把握されていました。インドへの侵攻作戦自体、実は1942年という早い段階で構想されていましたが、当時第18師団の師団長だった当の牟田口が「補給の困難」を理由に反対していました。
なので、インパール作戦実施前に、ビルマの第十五軍は大本営に補給用に自動車中隊150個の増強を申請しています。ところが実際に配備されたのは18個中隊と、明らかに補給部隊が足りない状況になっていました。そこで牛馬に頼るという作戦をやってみたわけですが、途中でほとんどが死んでしまうという有様でした。
補給の問題で失敗可能性が高いことが分かっていたのに、なぜきちんとした修正なしに決行してしまい、途中で作戦を修正しなかったのか。
ここはもちろん、大いに反省すべき点です。「一度決めたことを容易に変更できない」という軍隊というお役所的組織のダークサイドがもろに出ている部分です。
「なぜ、みんながやめたい事をやめられないのか?」というのは、組織が大きくなると現代でもありがちな話ですので反省点として議論すべきところです。ダムひとつでも一度決めてしまうとやめるのが大変というのは、お役所型の大組織では現代でもある話です。
史実のインパール作戦では「もう、弾薬も食糧もつきた。軍法会議で死刑になるのを覚悟で勝手に撤退してやる」と、ギリギリまで追い込まれた現場の佐藤師団長が独断で撤退をはじめます。
これは軍隊組織においては通常ありえない話で、こんな極限状態になる前になんとかしろようという話なわけです。
余談ですが
後からみた場合、当時の作戦上、ディマプールの英軍の補給基地を奪取するところまで日本軍が速攻で到達していれば、日本軍勝利になった可能性はあると、指摘している英国人もいます。ただ、当時の日本軍の能力としてはそこまでは戦力がもたなかったようです。
インパールの唯一の成功点
インパール作戦にはインドの独立派であるインド国民軍(チャンドラ・ボース)も参加しています。
実はこの作戦は、「インド独立戦争の呼び水となった」という点では無意味とはいえない部分があります。この意味では、目的が達成されているので成功と言えるのです。
先の大戦に関しては、「そもそもなぜ参戦してしまったのか?」「なぜ途中で適当なタイミングで切り上げることができなかったのか?」的な反省は大事です。ただし「日本軍の行動は、結果としてインド・ビルマ・インドネシアなどの独立のキッカケを作った」という点にも少しは触れておいたほうが公正でしょう。
純軍事的には完全な敗北でも、政治的にみた場合は少し話が変わる可能性があるということです。
ミャンマーでは日本の軍歌が使われている
この辺は、ビルマ(ミャンマー)の植民地支配からの独立というシーンでも事情は似ていて、第二次大戦での日本軍は独立のキッカケを作るという仕事をしています。
アウンサンスーチーの父のアウン・サンは日本で同士と共に軍事訓練をうけ、日本軍と協力して独立運動をすすめていました。ただし、第二次大戦で日本軍が負けそうになると連合国側につきました。
戦争で勝ちそうな側につくというのは当然の判断です。ただ、日本に対しても感謝の心はもっていたようで、ミャンマー(ビルマ)の軍歌には日本の軍艦行進曲が転用されていたりもします。
これはMyanmar Tot Ya Tatmadaw というミャンマー(ビルマ)の軍歌ですが、言うまでも無く日本海軍の軍艦行進曲の転用です。
ビルマとミャンマー
余談ですが、パソコンの辞書でビルマとうつとミャンマーに変換を提案されますけど、これはありがた迷惑な機能です。
ミャンマーは現在のビルマの国名です。1989年に今の軍事政権が国名変更を行いました。地名変更もあれこれ行われました。
ただ、ビルマとミャンマーはどちらも現地語の口語(ビルマ)と文語(ミャンマー)から来ている呼び名です。ニホンとヤマトノクニみたいなもんです。同じもののバリエーションなので、現在の正式国名で呼ぶことが重要かどうかというだけの話になります。
歴史的な話をする場合は、1989以前の話なのでビルマと呼ぶほうが一般的かと思います。
たとえば秀吉時代の大阪城は大坂城(さかの字が違うのです)と書くのが一般的なように、通常は歴史の話はその当時の地名を使うほうが話が通じやすい傾向があります。(最初は大坂とかいていたが、江戸から明治にかけて大阪と書く例も増え、明治期から正式名が大阪になっていったという経緯)
別の例でいうと、東ローマ帝国の都コンスタンティノポリス(ビザンチウム)は、現代の地名だとイスタンブール(トルコ)ですが、東ローマ(ビザンツ)滅亡より前の話ならコンスタンティノポリスとかコンスタンティノープル(英語読み)というほうが話が通じるというのと似たような話です。
まとめ
大量の餓死者を出して補給の困難で敗戦したという例として「無謀な作戦の例」としてよく引き合いに出されるインパール作戦ですが、実は政治的な面で見ればムダではなかった面もありました。
もちろん補給の困難を無視した強引な作戦だった点、もともと強引な作戦なのに状況に応じて臨機応変に作戦を変更することができなかった点、結果としてほぼ全滅(しかも餓死者多数)という悲惨な敗北をした、などなどは大きな反省点です。
ただ、政治的効果を考えた場合、時期が悪かったにせよ、日本軍がインドの独立派であるインド国民軍を伴ってイギリス領だったインドへ侵攻したということ自体に意味があったと考えることもできます。
同じ事実を評価する場合も、どの軸で見るかで評価が変わってくることはよくあるので、「複数の評価軸で見る事」も大切という話になります。