国体といっても国民体育大会ではありません。国の体すなわち、日本という国家の根幹は何かという話です。「国体の本義」は日本国の根本は何かという問いに答える名著の一つです。現代人には難解な本ですが、佐藤優の解説でわかりやすく復活しました。皇室は男系相続であるべきなのか、年金や税制はいかにあるべきか、日本の社会や政治に興味がある人は読んで損をしない本です。
政治思想を左翼と右翼に分けた場合、「自立する国家へ」などと同様、どちらの陣営の人にも推薦できる面白い本です。「国体の本義」の全文と解説、そして佐藤優の意見とが分かりやすく掲載されています。
この本は興味深い視点がたくさんあるのですが、話が長くなるので3つだけ取り上げます。
- 特攻隊のような英霊を慰霊し褒め称えることと、敗戦した戦争を美化することの違い
- 見える国家と見えない国家の違い
- 日本という国家をどう見るべきかという国家観について
英霊の慰霊と戦争美化の違い
これは本書の前文で指摘されているのですが、「日本が好き!」という愛国精神あふれる人達の中でも勘違いしている人が増えているところだと思います。
私は第二次大戦・大東亜戦争を戦って死んでいった英霊は、大いに感謝して褒めたたえるべきだと思っています。静かに参拝したいので敗戦記念日には基本的にいきませんが、九段の靖国神社には毎年参拝しています。特攻隊の遺書を読んで泣いたことがない人がいたら、近代史の知識に重大な欠落があると思っています。
ただ、第二次大戦=大東亜戦争を肯定しますか否定しますかと聞かれたら否定します。なぜなら史上最悪の負け戦だったからです。
敗戦を謙虚に反省して次なる戦いに勝つための万全の体制を整えること。「戦争に負けて外交で勝った歴史も在る!」と叫んだ政治家がいましたが、まさにそれこそが死んでいった人達の思いに答える最善の道です。「負けてなかったんだ。騙されただけなんだ」などと叫ぶのは負け犬の遠吠えです。「次は(戦わずに)勝利する!」と牙をとぐことこそが真の慰霊です。
そのためには軍事・外交・経済・技術・文化、あらゆる領域で旧来の陋習(わるい習慣)をたたきつぶし、新しい価値観を取り入れて行く必要があります。
先の大戦の敗因の一つは海軍と陸軍でケンカばかりしていたことですが、軍官僚が個人主義・セクト主義に陥り、共同体全体の利益、という視点が抜け落ちたことは先の大戦の敗因のうちの大きなものです。そして、こうした視野の狭いエリートの堕落という問題は現代でも完全には解決していません。
さらにいうと、当時の帝国軍人というのは限られた貴族階級だけが出世できるような狭い社会ではなく、貧乏人も金持ちも日本人も朝鮮人も将軍になれる、意外に平等な社会でした。なので、敗戦の大きな要因として、一部のエリートの堕落という問題だけでなく日本の教育システムそのものに大きな問題があったと考えるべきでしょう。
見える国家と見えない国家の違い
これも重要な視点です。本文中では「公金を横領するような腐敗した官僚や権力者のために死ねるやつなんか一人もいない」という趣旨のことが語られています。
愛国心や公共心、日本を愛する、という美しい心は、単純に「現政権に忠誠を捧げる」という 意味とイコールになってはいけないということです。
目に見える日本国というのは、具体的には霞ヶ関の官僚集団であり永田町の政治家集団であったりするわけです。実際の権力を行使しているのはそうした目に見える国家です。
ただ、日本とか日本文明といったばあい、目に見えないよりおおきな概念が存在します。これが目に見えない国家です。
例えば、民主党政権が気に入らないとか自民党政権が気に入らないとか、そういうことと、 日本が好き、日本という文明を愛する、また、日本という国家が大切、というのは全く別次元であるということです。
ここをちゃんと分けておかないと、悪い意味でその時の政治権力にいいように利用されてしまいます。難しいですが、この発想はきちんと理解しておく必要があります。
これは私見ですが
目に見える国家:官僚組織・政治家集団といった具体的な人間や組織
目に見えない国家:文明や歴史などの日本のこころを表す抽象的なもの
とでも整理しておくとより分かりやすいでしょう。目に見えない国家は国家という言葉こそ使ってはいますが、国家という概念を超えた文明や共同体そのものに近い概念としてとらえた ほうがいいと思います。
日本という国家はいかなる国か
昭和の「国体の本義」の思想を一行でいうと、「大日本帝国は天皇を中心とする神の国である」ということになります。東ローマ帝国が「キリストの再臨まで続く最後の千年王国」的な意識で自らを定義したのと似たような話で、「高天原の神々の子孫の皇帝と臣民の国」という神話的な国家観になります。
ベースにあるのは明治憲法の「大日本帝国ハ万世一系天皇コレヲ統治ス」的な、日本書紀の一書(天壌無窮の神勅)を根拠として活用した王権神授説的な国家観です。
この国家観をどう評価するかは立場の別れるところでしょう。明治大正時代においても「天皇は神の子孫などという王権神授説的な話は、時代遅れだからやめよう」という話があったくらいです。が、大日本帝国時代の昭和初期の国体思想を一言でいうと「天皇を中心とする神の国」ということです。
明治大正までふくめて、もう少し正確に言うと「天皇を旗印(錦の御旗)にしてこその日本である」という話になります。
そういう意味では、天皇を国民統合の象徴とする日本国憲法の世界観は、天皇という視点に関してだけ言えば、明治の帝国憲法とそうかけ離れたものではありません。その意味で、第二次大戦の日本側の降伏条件であった「国体の護持」は、天皇を象徴とする国家を継続するという一点において正しく守り抜かれたわけです。