結論からいうと、「悪法もまた法である」といって毒杯を飲んだソクラテスのような律儀さは、日本的な美しさとはまた別のものと考えたほうがよいでしょう。
古事記や日本書紀に出てくる神々や英雄たちの戦いぶりをみていると、そこに「正々堂々とルールにのっとって戦うことで勝利する」という学生スポーツ的な美学はありません。「戦いの目的とは勝つことである」というシンプルな戦士の原則がそこにはあります。
有名なスサノオのヤマタノオロチ退治は、策略によるものです。大蛇を酒に酔わせて眠らせてから倒すというもので、「一騎打ちにて決着をつける」的なドン・キホーテ的な戦いかたはしていません。
ヤマトタケルがクマソタケルを倒した時は女装して宴会に紛れ込んで酒を飲ませてから殺しましたし、イズモタケルを倒す時は偽物の剣を相手に渡して「剣で勝負しよう!」と持ちかけて殺しています。
日本の神話を代表する神と英雄が、ともに「策略による勝利」や「相手の土俵で戦わないこと」による勝利を得ていることから考えて、上古の日本人に「ルールに縛られた中で美しく勝つ」といった美学などは存在せず、「自分に都合がよい戦い方を設定するのも戦いの内」という感覚が常識的な感覚として共有されていたと推測することができます。
「与えられたルールの中で、正々堂々と競い合う」みたいなスポーツマン的な精神は、古代から続く日本人の美徳と言うほどのものではないのです。
学生スポーツやゲームなら「決まったルールの中で正々堂々」もよいでしょう。ただ、大人の世界は「ルールを作るところからが勝負」です。例えば、欧米諸国が「柔道のルールを変えやがった!ずるい!」と怒ってもはじまりません。武道ではなくスポーツになってしまった時点で多少の妥協はやむをえない所があるかもしれません。ただし、いかに「柔道本来の精神」を体現したルールを作って諸国に支持させ続けるか、というのが本家としての日本の義務です。
そのためには酒をのませて大蛇を眠らせたスサノオのような、「ずる賢さ」という悪徳を身につけることが求められます。それを美しくないと思う考え方は、近世特有の「下々の者」根性や西洋的なスポーツ感覚であって、日本古来のものではないのです。
なお、「庶民はお上の決めたルールに従っていれば良いのだ」的な感覚は、江戸時代以降の教育の悪影響と推測できます。これは、民主主義制度をとる日本のような国においては 本来あってはならない価値観です。
強者の立場にいる時の道徳と、弱者の立場にいる時の道徳は異なるのです。どこかの誰かがなんとなく決めたルールを守って死を選ぶなどというのは、全く美しいとは言えない生き方です。
追記
最初にソクラテスの話を出しましたが、ソクラテスの真意は「自分の哲学に従って生きる」ということであり、その結果として刑死を選択したにすぎません。「悪法もまた法」と言って死んだというのは後世の創作である可能性が少なくないようです。