禅の臨済宗の名言に「仏に会ったら、仏を殺せ」的なものがあります。この名言は続きがあって「親に会ったら親を殺せ」という言葉もあります。もちろん、「殺人のススメ」ではなく「象徴的な意味」です。カンタンに言うと「過去に学んできたこと、信じてきたことを、全て手離した先にこそ、本当の未来がある」ということです。
西洋で言えば「神は死んだ(ニーチェ)」というのがありますが、少し似たようなノリかもしれません。
仏を殺せ、親を殺せ、という字面だけをみると「非道な教えだ」と思うかもしれません。が、別に「殺人のススメ」ではありません。「他人の作ったものを崇拝している限り、自由にはなれないし、1人前にはなれない」ということです。たとえ、尊敬する相手の言うことであれ、きちんと距離をとりましょうということです。
「逢佛殺佛、逢祖殺祖、逢羅漢殺羅漢、逢父母殺父母、逢親眷殺親眷、始得解脱、不與物拘、透脱自在。」『臨済録』より
学習棄却(学んだことを手放す)というのは、意外に大変なものです。私達は「親から教わったこと、先生から教わったこと、先輩から教わったこと」を真実だと思って生活しています。学校で教わったことが「ウソだった」と言われると、多くの人はショックを受けるものです。
ただ、現実的な問題として、人によって最適な価値観は異なります。
「適当にやる」「力をぬいてやる」ほうが結果としてうまくいく人もいます。いっぽうで「真剣にやる」「気合いをいれまくる」ほうが結果としてうまくいく人もいます。「自分のため」と意識したほうがうまくいく人もいますし、「人のため」と意識したほうがうまくいく人もいます。
この辺りは、人によって正解が違います。ただ、世の中のほとんどの教育は「一つの正解」をまず押し付けるようにできています。
ということは、親や先生や指導者に教わったことは、「全て捨ててしまったほうがよい」場合もわりとあるのです。他人の与えてくれる正解は、しょせんは他人の正解にすぎません。「信号が青の時にわたり、赤の時は止まりましょう」みたいな話なら、模範解答はあります。ただ、人生で大切なことの大半には、模範解答などはないのです。
日本神話を含む多くの古代神話は「親殺し」という「親的な存在を乗り越えていく」というテーマを含みます。要は「親や指導者、学校の先生や会社の上司などなど、他人に与えられた正解をぶっ壊すこと」の重要さを昔の人達は正しく理解して教育していたのです。
「仏に会ったら仏を殺せ・・・・」をまとめて超訳すると、「すべてを疑い、全てに絶望せよ!その先に光がある!」というところになるでしょう。
※臨済録の原文・現代語訳はこちらをチェック