神格化というのは、たとえば誰かを生きている神として批判を禁止して崇め奉ることです。旧ソ連で行われたスターリン崇拝や、チャイナで行われた毛沢東崇拝などもこれに含みます。スターリン崇拝は旧世界の遺物ですが、別の形での神格化は意外にふつうの日常に入り込んでいます。
例えは、特定のIT企業の熱狂的なファンというのは、製品を神と呼び、自らを信者と称することがあります。パソコンのマック信者などは熱狂度が高い人は珍しくありません。信者でない人からすると「楽しそうだねー(暖かい目)」という感じになりますが、本人たちはいたって楽しそうです。
小さなコミュニティーのリーダーが一部の人達から神扱いされるのもよくある話です。ヨガを趣味としてやってる人からみたら、ヨガ教師というのは神に見えることがあります。そういう信者的なファンがある程度の数いるからこそ、町の習い事教室はビジネスとして成立するわけです。
何かをアイドル的に熱狂的に好きになるというのは、人間の持つ自然な心理の一つです。これが、「熱狂」や「あこがれ」の段階にあるうちは問題ありません。好きなものはたくさんあるほうが、自分が元気になります。ただ、熱狂が神格化の段階にいたると非常にリスキーなことが起きてしまいます。
神格化の危険その1 他力本願な発想を助長する
人がなにかを崇める時はその背景に「あがめる目的」が存在します。雨を降らせたいから雨の神や水の神に祈る、という古代的な発想が一例です。「神格化」というのは実は「依存の裏返し」になってしまうことが少なくありません。
何かを神格化してあがめるというのは、「神様に個人的なお願いを叶えてもらいたいと熱望する」状態になってしまいがちだからです。
が、実際には「神様を崇めたからといって、宝くじ3億円が確実に当たるか」といったらそんな都合がいい奇蹟はおきません。雨乞いなら雨が降るまで気長に待つしかないのです。
自分の元気の源は自分の内側に持つようにしていかないと非実用的な発想に流れがちになります。
これが、他人を神格化することの危険その1です。
神格化の危険その2 「学習棄却の妨害」
神格化というのは批判の停止ですので、変化や成長を止めてしまう行動です。例えば、いわゆる成功者の話を神格化して無批判に受け止めてしまうと何が起きるかというと、過去の成功パターンを捨てられなくなってしまうリスクが高くなっていきます。
そういう思考に陥った人間がどうなるかというと、先の大戦の日本軍と同様に滅びの道をまっしぐらということになるでしょう。日露戦争の成功体験を捨てられなかったのが、日本軍が先の大戦で敗北した原因の一つだからです。
学習棄却(過去の成功パターンを捨てること)を妨害するという意味で、何かを神格化するというのは実は極めてハイリスクな作戦なのです。神にするということは「批判を禁止する」ということだからです。
大好きなもの、熱狂的ファンである対象、こうしたものはいくらたくさんあっていいと思います。ただ、神格化して 崇拝する対象はなるべく少なくしていったほうがいいでしょう。
神格化して無批判に崇拝する対象が増えれば増えるほど、「思考が固定化 」して「過去の思考回路を捨てられない」リスクをどんどん増やすことになってしまうからです。